差別解消法が施行されるこの記念すべき時に…

全国視覚障害教師の会 代表 重田雅敏

  平成28年4月1日より障害者差別解消法が施行されるが、この記念すべき時に、日本では障害者を取り巻く環境がどのようになっているのか。対照的な二つのケースを紹介したい。
  一つ目は、ある遊園地で起こった視覚障害者へのアトラクション乗車拒否問題である。昨年末の土曜日の夜、外国人の視覚障害者と同行者のグループ約10数名が楽しみにしていたジェットコースターに乗ろうと乗車口に行ったところ、白杖を見た係員に呼び止められた。係員は安全規定の看板を示して、視覚障害者は安全上の規定があるため乗れませんという。わざわざこのアトラクションに乗ることを楽しみに来た人たちは何とか乗せてもらおうと質問した。何が危険なのかと聞くと、非常階段が急で歩けない、車両の枠や肘掛けが高く乗り移れない、足元が狭いため座れない、非常時の安全ベルトが一人では締められないとの理由だった。そんなことはできるからぜひ乗せて欲しいと言うと、それなら白杖なしで階段を歩くテストを受けてもらいますと言われた。これには一同憤慨し、視覚障害者に白杖を持たずに歩くというテストをさせるのは、人権問題ではないかと抗議すると、社内マニュアルにあるので、これに合格しない人は乗せられないという。係員は規則に定められたことなので精一杯丁寧に説明を試み、視覚障害者も繰り返し熱心に安全上の問題はないという説明を試みた。乗せてほしいという気持ちは、いつしか視覚障害者への偏見と差別をなくしたいという気持ちに変わって行った。平行線の押し問答は夜の寒空の下でなんと3時間も続き、視覚障害者の一行はむなしさと悔しさをかみしめて帰国を余儀なくされたのだ。
  しかし、後日遊園地側から謝罪の電話があり、規定が完全なものではないと考えているとの書面も郵送されてきた。体験乗車をして確認し、運行監理や安全の担当者に視覚障害者は情報障害者であることを直接説明した。また目の前でまたいで乗り移る、狭い所を通り抜ける、安全ベルトをはめるなどの実演をしてみせた。担当者はとても理解があり、机の上には障害者差別解消法の資料が置かれていた。やはり杖は不安定な歩きを支えるもの、安全ベルトの装着も理解や動作ができないと勘違いしていた。これは肢体不自由や知的障害と混同して理解していたためだと思われる。遊園地側の話によれば、4月からの規定改正に向けて視覚障害者への案内や対応研修を検討しているという。1人でも多くの方々に楽しんでもらえるようにしていきたいと明るい声が返ってきた。当面は同伴者付きではあるが、乗車が許可される見通しだ。80mまで十数秒で引き上げられる高速アトラクションの恐怖を思い出しながら、最新の設備に見合う最新の規定ができることに喜びを感じた。差別は解消されつつある。
  二番目のケースは、或る短期大学で起きた視覚障害のある准教授の雇用と人権問題である。2月の中旬に相談依頼の一報が入った。その准教授の話では、突然研究室の退去と担当授業外しを告知され、すでに後任の担当者は決められており、新年度、本人の授業は履修科目リストから削除されていたという。2年前にも退職勧奨の話が持ち出され、そのときは、自費で視覚障害を補う人を雇うということでなんとか教壇に立つことを許された。だが、その補佐員には学生に話したり指示してはいけないなど厳しい制約が課せられた。その准教授に対する教壇降ろしの理由は、学生から好評だった指導内容や専門性に関わることではなく、授業中に学生がお茶や飴などの飲食をしたり、居眠りしているのを注意できなかったなどの生活指導上のことだった。小学生ならともかく、学生の行為に対して、見えなければできない監督責任を視覚障害教師に要求しているのである。
  その後、やむを得ず弁護士に依頼して、短大側に処分の撤回を求めたところ、なかなか面会に応じず、漸く設けられた話し合いの場では、短大側の弁護士と学長以下4名の教授、2名の学科教員がずらりと並び、教授たち一人一人がA4のプリントを読み上げ、携帯いじりをしていた学生がいた、授業を抜け出す学生がいた、などなど、できていないことを次々に読み上げたという。しかし、このようなことなら障害のない教授の授業にもないわけではない。気付いた人がその場で注意すればよかったのではないか。障害者雇用促進法では、障害のある人に対して合理的配慮を求めているが、配慮するどころか障害を一方的に職務遂行上の欠陥ととらえて排除しようとするものと言える。このような理由であれば、周囲の人の協力やモラル向上策で解決できるのではないか。初めに障害者を排除したいという意図があり、その理由は何でもよかったのではないか。    
だが、この准教授は、自分のことで大学の評判が落ち、学生や卒業生に迷惑が及ぶことが心苦しいと言うのである。保育士を養成する短大の学長と教授たちが、弱い立場の人を応援するどころか、逆にできないことを攻めたてて追いつめている事実が明るみに出れば、余りにも恥ずかしい教育者が指導している短大と言わざるを得ない。その短大の教育理念の一つに共存共栄がうたわれているのだがどう理解したらいいのであろう。
  障害があることは本人の責任ではない。障害者が生きていくには沢山の困難がある。当たり前のことだ。それゆえ、社会参加や共生社会を実現していくためには、このような差別をなくしていかなければならない。短大を所管する文部科学省の高等教育課は労働問題は管轄外であり、教育者側のことも職務対象ではないと答える。しかし人権尊重の教育がなされていないのは明らかではないか。指導する側の社会で差別が解消されないで、どうして子どもたちだけに差別をしてはならないと教えられるのであろうか。厚生労働省も各県の労働局に繋げてくれたが、これまでは調査やあっせんはできても強制力はなかった。これからこのような問題が持ち上がった時に、新しい救済の仕組みがきちんと運用されなければ、改正された障害者雇用促進法もただの看板に過ぎなくなってしまう。
  私たち障害者は、心のどこかで一人前に働けないことを、援助してもらっていることを申し訳なく、肩身が狭く感じている。だから人一倍努力して、障害のない人と同じようにしようと頑張ったり無理をしたりしてしまう。それは本来のあり方でもなく、生きる意義でもないとは思うのだが、つねにそのような強迫観念が存在する。必死に働き懸命に生きている障害者の足をすくって、悩ませ悲しませる事態があることは、あまりにも残念だ。障害があるだけでも大変だというのに、仕事を取り上げられ、孤立させられ、できないことを欠陥のごとく責められるのであれば、障害者に明るい未来はない。この差別解消法の施行される今この時に日本にはこのような状況が存在している。差別をなくす道のりは、まだ始まったばかりである。


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