私の授業づくり
嘉悦大学教授 生井良一

 こんにちは。私は生井(なまい)と申します。JVTの皆さん、お久しぶりです。そして、アンニョ ハシムニカ。韓国から来られた先生方、はじめまして、ようこそいらっしゃいました。
 さて、今日は「私の授業づくり」ということで話をさせていただきます。
 まず、私の自己紹介です。年齢は67歳、おじさんです。目は全く見えません。2年前、65歳で大学を停年退職しました。担当してきた科目は環境です。退職後も、同じ大学で環境を教えています。
 私は大学院の1年のときに病気で失明しました。そのあと、復学して勉強を続け、博士課程にもいきました。専門は物理です。博士課程が終わってから大学で教えることになりました。ですから、私は教員になったときは、すでに全盲でした。
 私が勤めてきた大学は私立の嘉悦大学(かえつ だいがく)です。最初は、「生活と科学」という科目を担当しました。そこで何をどうやって教えるか、ずいぶん悩みました。
 たどりついたのは物の流れを追いかけるということでした。生活に入ってくる物の流れ、生活から出ていく物の流れを追いかけていけば、さまざまな環境問題が見えてくるのではないか。
 それ以来、それぞれの時代の環境問題を取り上げて授業づくりに力を入れてきました。
 さて、最初の年は、授業を受ける学生は20人ほどでした。それが、次の年は100人ほどに増えました。それからもだんだんと増えていき、教室にあふれて、ホールで授業ということもありました。
 大学では、たぶん「目が見えなくて本当に授業ができるのだろうか」と心配していたのではないかと思います。それが、急に学生が増えたので、何とかやっているんだな、 そう思ってもらえたのではないでしょうか。
 学期の初めの時間、ガイダンスのときに、私は自己紹介で、白い杖を振り回しながら、私の視覚障害について、ありのままを話しました。明るくにこやかに話しました。
 学生の反応はどうだったでしょうか。とくに私が見えないということは気にならないようでした。それに私の科目は選択科目なので、いやだなと思った学生は取らなければいいわけです。でも、学生が選択してくれるよう、私はガイダンスのときは、思いっきりハッスルしました。せっかく職業につけたので、絶対手ばなすまいという気持でした。
 次に、授業づくりの話です。私の担当科目は環境で、当時は環境をやっているのは私一人だけでした。ですから、他の先生と相談するということもありませんでした。
 授業中では、学生の反応をどう知るかという問題があります。だいたいは、雰囲気で分かります。もし、おしゃべりの声が聞こえたら、その都度注意していきます。ほおっておくと、どんどん広がっていくからです。ところがこれではすまなくなってきたことを後でお話します。
 それから、教科書は無しで、全部手作りの授業でやってきました。
 この手作りの授業づくりを支えてくれたのがボランティアの方々です。私の場合ということで言うと、ボランティアの人たちがいなければ、教員はやってこれなかったと思います。
 さて、授業です。当時の環境問題は、川の汚れ、ごみ問題、大気汚染などがありました。
 その後は地球環境問題ということで、オゾン層の破壊、熱帯林の減少、地球温暖化などが問題になってきました。
 たとえばです。今から30年ほど前は、生活排水が川を汚すということで、大きな問題になっていました。それで、パックテストという試薬を使って、砂糖やみそ汁がどれくらい汚れの元になっているか、教壇の上でやってみせたりしました。
 ゼミでは、外に出かけて行き、いろいろな川に直接行って、現場のようすを見たり、水質を測ったりしました。たとえば、東京都の西の方を流れている川で、多摩川というちょっと大きな川があります。
 ゼミのメンバー15名ほどで、この多摩川の源流近くから、東京湾の河口まで一つの川の上流から下流まで水質調べをやったこともありました。約130kmをみなで手分けして調べました。
 このときは、最初にゼミの皆で多摩川に行き、どんなふうにするのか、私がやってみせます。そのあとで、学生たちに手分けして測ってきてもらいます。幸い、多摩川に沿って、鉄道があるのです。
 最初に多摩川に皆で行くときは、駅から多摩川までは、学生が交代で私のガイドをします。
 盲導犬を持つようになってからは、盲導犬が先頭になって、なぜか、後から学生たちがついてくるようになりました。
 ペットボトルでくみ上げた川の水は試薬につけて、色の変化で汚れを測ります。色の変化は私には分かりませんので、当然、学生たちに見てもらいます。私一人では、できなくても、学生の力をかりることで、やっていけるのです。
 今度は別の授業です。当時フロンによるオゾン層の破壊ということが問題になっていました。これはオゾン層と生命の話であり、それを授業で取り上げたいと思いました。
 この授業では、光の話、紫外線について。大気圏の科学、フロンの話。紫外線と皮膚の関係、皮膚の構造についてと話題がいっぱいです。
 これらのことを図を黒板いっぱいに書いて、チョークの色を 使い分けながら説明しました。
 では、図はどうやって書いたのでしょうか。縦と横方向で、ポイント、ポイントでマグネットのボタンを黒板の端においていきました。
 そして、これらの目印を触りながら、アバウトに図を書いていきます。細かい図は書きません。あくまでイメージをつくってもらうためであり、アバウトで良いと思いました。
 チョークの色の区別ですが、白と赤と黄色を使うとすると、白はそのまま、赤は輪ゴムを巻いておき、黄色は半分に折って短くしておきます。
 この授業では、皮膚の話があったためか、女子学生が「この授業が一番すき」と言ってくれました。これはうれしいことでした。
 こう話してきますと、順調だったように聞こえるかも知れません。実は大きな問題がありました。それは、学生たちのおしゃべりです。おしゃべりがうるさくて授業にならなくなってきました。
 いろいろなことをやってみましたが、どれも効果はありません。これを抑えることができなくて、悩みに悩み、私は教師には向いていないのではないかと思ったほどです。
 そんなとき、大学時代の先生に電話して、学生のおしゃべりで困っているという愚痴をこぼしました。すると、その先生は、「書き取り」という方法があるよとアドバイスしてくれました。
 そこで、黒板に書かずに、「口でいうから、それをノートに書くように」ということにしました。すると、どうでしょう。まるで水を打ったようにシーンと静かになりました。教室には「コツコツ」という鉛筆の音だけです。これはすごいと思いました。理由は、静かにしていないと、私の声が聞こえないからです。
 こうして手で書きとることで、話の流れが頭に入るようになるためか、その後も静かな状態が続くのです。
 また、こんなこともありました。それはエイズが大きな社会問題になってきたときです。正確な知識を伝えなければ「感染拡大」が起こるのではないか。若者にはぜひ正確な知識を知ってほしい、そこで、ぜひ授業で取り上げたいと思ったのです。
 しかし、先生の中には「エイズ、そんなこと」と言って顔をしかめる先生もいました。
 そこで、授業の前に理解を求める準備をしました。しっかり音訳者に本を読んでもらって、学内論文集に「エイズ教育の必要性」という論文を書きました。これを読めば、私が何を伝えたいか、分かってもらえると思ったのです。
 学園祭でも、エイズをテーマにしました。そうしたら、かなりたくさんの人が見に来てくれました。
 こうした準備をして、授業に臨みました。
  @エイズウイルスは体のどこにいるのか、
  Aしたがってどんなことで感染するのか、
  B当然セックスでも感染はすること、
  C特徴は、感染しても、本人も分からないし、周りの人にも分からないということ、
 これが怖いこと、やっかいなことなんだ。なぜなら、その間でも相手に感染させることはできるのだから。だから、知らないうちに感染者が広まってしまう。
 特に、このCの「感染しても、それは本人でも分からないし周りの人にも分からない」、すると感染が広がっていく。このことを何度も何度も強調しました。
 では、どうしたら感染しているかどうか分かるのか。それはただ一つ、血液検査だけ。しかも保健所で匿名で無料で検査してくれるということ。
 だから、自分のパートナーを大事に思うのであれば、二人して検査に行くのがいいんだ、と授業で伝えました。
 そして、最後に、生き方について考えてもらいます。たとえば、感染していると分かった後で、その恋人はどういう態度を取るだろうか。ある人は別れると言い、ある人は今まで通りつきあっていくと言います。
 そういう実例もビデオなどで紹介しました。エイズと分かっても、だからこそ一緒にいたいという人もいるわけです。知識があれば一緒にいても感染することはありません。
 そして、問いかけます。君たち自身だったら、どうするだろうか、考えてみてほしい。今恋人がいる人も、これから恋人ができる人も、よく考えてほしいと。
 さて、学生の反応です。レポートの最後に、「エイズについて知ることができて、本当に良かった、ありがとうございました」と多くの学生が書いてくれました。これを読んで、やって良かったと思い、学生たちと気持が通じ合ったような気がしました。
 さて、ここで話は がらりと変わります。2013年3月に、私は、65歳で停年となりました。見えなくても30年ほど勤めることができました。それについて、私なりに ちょっと考えてみました。
@まず、大学が私を受け入れてくれたということ。がんばるにも、その場が無ければ、がんばりようがありません。しかし、場が与えられても、目の見えない私には、仕事を続けていくのは難しいことです。
A私の場合は、それを助けてくれたのがボランティアの人たちです。学生時代は点訳ボランティア、勤めてからは本を読んでくれるボランティアです。特にNPOです。音訳NPO「ブライユ」の存在は大きいものでした。
Bでは、どのようにして、ボランティアの人たちと知り合ったのか。それは、都立図書館の対面音訳サービスを利用したおかげです。図書館で本を読んでくれる人の中に、「私たちもお手伝いしましょう」と言ってくれる人がいました。こうして音訳の会、NPO「ブライユ」の代表をしておられる平井さんとも知り合うことができました。そして、たくさんの本を読んでいただきました。
C保健室での出来事。これは、保健の先生が私に教えてくれたことです。授業を受けているときに、体調がよくない学生は保健室に行きます。たいていは授業が終わるまでベットに横になっています。ところが、私の授業を受けている学生は、落ち着くと「教室にもどります」と言うそうです。保健の先生は、もう少しいてもいいのではと言うと、「生井先生ががんばっているのだから、私も教室にもどります」と言ってくれたそうです。
Dメンタル面で病をかかえた学生たち。自閉症で、人と向き合って全く話のできない学生、パニック障害で苦しんでいた学生、対人恐怖症のひどい学生、などなどが私のゼミに入ってきました。障害を持つ私に対して安心感を持ったのかも知れません。私は必死で彼らを理解しようとし、彼らと気持のこもったやりとりをしてきました。
 こうしてみると、障害を持っていることは決してマイナスではない。
 障害があっても、必死で授業づくりに取り組んできましたが、その私の姿が学生たちの心に通じ、その学生たちの反応が私の次の一歩につながったのではないでしょうか。教育は人づくり。その意味で学生とともに歩んでこられたことを、うれしく思っています。
 最後に韓国の先生方に。ぜひがんばって、すばらしい先生になってください。心より期待しています。以上です。話を聞いていただいて、ありがとうございました。


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