2014年2月韓国視覚障害教師会総会で会長に選ばれた私は、この教師会の体質改善とシステム構築に力を入れた。まず(担当)部署を組織して各部署に業務を分散し、一部の教師が引っ張っていくのではなく、多くの教師が一緒に仕事をすることができる体制を作り、先輩教師が新規教師に助言するメンター制度を通じ初めて教職に就いたものが足軽く進めるように支援した。併せて、第2回韓日視覚障害教師親善交流大会の推進のために部署を作りイ・ナヨン先生をリーダーとして親善交流大会に関することを総括してもらうこととした。
親善交流大会の準備は、まず両国間で日程を決めることから始まった。韓国と日本は学期の始まりが異なる。韓国は3月から新学期が始まり、親善交流大会が予定されている1月は冬休みの真最中だが、日本は12月下旬に短期間の冬休みがあり1月中旬は学期が始まる時期であった。両国の先生方双方が共に冬休み中であったらもう少し気楽に会うことができただろうが、日程を決める過程で日本側先生方には学期開始直後の時期になってしまった。もちろん全国視覚障害教師の会で寛大な配慮があったわけであるが、今から考えてみると日本の盲学校で実際の授業と学校の現場を見ることができるいい機会となった。
親善交流大会の日程が決まり4月からは日程の中身についての話し合いが本格的に始まった。もちろん全国視覚障害教師の会が主導しつつ、我々が希望する方式での交流及びセミナー(会議)に関する調整に入ったのである。細部の日程において我が教師会が重点を置いた部分は大きく3つある。一つ、日本の教育、福祉施設及びその政策が示唆する点について今回の親善交流大会を通じて知りたい。二つ、交流会参加で初めて海外に出る先生達のために日本の文化を感じ取れる契機にしたい。最後に、できれば予算を節約し多くの先生方が参加できるようにしたいと考えた。
重田代表を中心に日本の先生方は、このような我々の考えを理解して日程を考慮され、はなはだしくは東京での食事場所交渉のために何か所かのレストランに行かれ事前に試食されるというご苦労も惜しまれなかったという。このようにして詳細日程が暫定的に決まり、6月からは韓国の教師会で親善交流大会参加者を募集した。このような団体事業をするのに最も難しい点は、人を集めることと意見を取りまとめることではないかと思う。そうして、最終的にキム・ヨンイル教授を始め11名の親善交流大会参加者が決定した。次に、航空券の予約に入った。数か月前に予約をしなければ割引航空券が購入できないということで参加者募集を急ぎ、航空券代を含む一部経費をとりあえず受領した。こうして8月末にはついに航空券を確保した。その後細部日程を調整し、親善交流大会参加に支援を受ける方法を検討、準備して申請したが、1月は支援対象期間ではないとの理由で支援を受けることができなかった。いつのまにか12月になり、交流会1か月前に最終経費を受け取って日本の先生方に進呈するプレゼントと出国当日についての話し合いが行われた。旅行社を通じた出国ではなかったため考慮すべき点が一つや二つではなかった。交流会で一緒に歌う歌も点字訳をして配り、旅行者保険に加入して準備すべき物などを確認し周知した。自分が旅行社の職員になったように感じた。
1月15日、ついに出国する日になり、心の中では「飛行機にうまく乗らなければならないのだが」と心配になった。親善交流大会参加者の中に弱視の先生が多くはなかったので、引率する立場からすれば心配になるのはどうしようもないことだった。やっと出国手続きを終えて羽田行き飛行機に搭乗し一息ついた。1998年韓日視覚障害学生交流大会の一環で日本に行って以来17年ぶりで、(また)羽田に向かうのは初めてなので心がときめいた。飛行機に乗ること自体が、見知らぬところへ行くという期待感を抱かせてくれる気がする。羽田空港についてからは、我々が事前に申し込んでおいた案内サービスを受け、入国審査を終えて、ついに日本に到着したという実感がわいた。空港のトイレに立ち寄ったところ、不思議にも韓国語でアナウンスが流れるのを聞き韓国人が頻繁に旅行するからだろうと思った。それだけ韓国と日本は1日生活圏と言えるほど近い距離なのである。
1年と少しで再会した重田先生は、満面に笑みを浮かべられて一人一人の手を取って挨拶をされた。山口先生は、竹で作られた日本の伝統的な笛を吹いて私達を歓迎してくださった。ボランティアとして同行された南沢理恵さんと韓国でも通訳として助けていただいた韓国人留学生のサ・ジェミンさん、そして日本人通訳者2名も我々を歓迎してくださった。
到着当日最初の日程は、公共交通機関を利用して移動することで、羽田空港から初めてモノレールに乗り、浜松町に行って国際貿易センタービルの前から宿泊先のプリンスホテルへと向かうというものであった。モノレールというのは空中を走る電車で、窓から東京市内が見えるという。しかし、その日は雨がしとしと降って窓の外の景色を見るにはよくない天気だった。ホテルに到着し旅装を解いてから、夕食を取る築地魚市場の寿司レストランに行くのに東銀座まで地下鉄を利用した。外国人である我々一行も障害者割引をしてくれ、比較的安く電車を利用することができた。我が国の電車は、1級障害者であれば付添人まで無料で乗車できるが、日本の場合は民営化されており料金が相当高い方である。事前に周知する過程ですでにわかっていたが、車内の乗客がとても静かだということである。私たちが電車を利用した時間帯は、午後6時ごろで夕方の通勤ラッシュであったにもかかわらず電話の鳴る音や通話の声をほとんど耳にすることはなかった。騒いでいるのは我々一行だけではないかと思った。電車を降りて我が国の江南地区(注:ソウル郊外の繁華街)のような銀座を歩いたが、人道には人気がまばらな方だった。また、人道と車道を分ける縁石がとても低く車いすで移動するのに困難がないようによくできていた。車道の車もまた警笛を鳴らすことなく走っているのを見て、日本人の遵法精神に感銘を受けた。
夕食の場所である寿司屋に到着し寿司を食べることとなった。レストランに入る私たちを迎えてくれた従業員の声がテレビのギャグ番組で見たものと似ていてふと笑いがこぼれた。韓国の代表的な料理としてブルコギ(注:焼肉料理)、サムギョプサル(注:豚のバラ肉料理)、キムチ(注:野菜の唐辛子漬け)を挙げるとすれば、日本の代表的な料理である寿司を食べるということで期待が膨らんだ。ところが、一皿で2万ウオン程度する寿司が出てきても、寿司が10個(貫)と生姜(注:がり)だけしかなかった。「まさかこれで終わるわけはないはず!」と思ったが、これがすべてだった。甚だしくは、味噌汁ぐらいは出てくると思っていたがそれも別注文なのだとか。確実にこのような面では韓国のレストランは最高だと思う。中国でもおかずは1品ずつ別注文しなければならないが、韓国では一括しておかずが提供されるだけでなく足りなくなったらいくらでもおかわりができるからである。ともあれ寿司は本当にネタも大きくおいしかった。しかし、量が少ないのが欠点と言えば言えるかもしれない。前回の第1回親善交流大会の時も日本の先生方があまりたくさん食べられないのを見て、日本人は食事の量が意外と少ないと思った。そう考えてみれば、日本の先生方の中には太り過ぎの方がほとんどいないと思う。このように適当な食事量が健康と長寿の秘訣ではないかと考えつつ、おいしい食事を平らげてから東京駅に向かった。
東京駅は、お土産売り場をはじめたくさんの商店が約1000余店舗ある駅で、皆で一緒に(団体)行動するよりはチームに分かれて回ることとした。私達は、歩き疲れたこともあり近くのパン屋に行きパンを少しとコーヒーを注文した。後でわかったことだが、大部分のチームがデザートを食べに行ったそうだ。
こうして東京駅の夜は深まり、ホテルに帰るためタクシーに乗った。やはり、本で読んだとおり我が国とは反対で運転席が右側にあり、実際に見ると奇妙でもあった。ホテルに着いて各自部屋に戻り、私達はおやつを買いにホテル地下にある売店に行った。とりあえず日本のいろいろな菓子と飲み物を買って部屋で食べたが、我が国とよく似たものもあったが納豆味のする菓子は食べられなかった。
1月16日金曜日、葛飾盲学校を訪問する前に浅草の浅草寺に立ち寄った。東京の伝統を守る街浅草は、江戸時代に造られたところで、まるでソウルの仁寺洞のようにおみやげと伝統的な食べ物を販売する店がたくさん並んでいた。昔ながらの通りには、日本の伝統的な建物があり、遠くには東京タワーを超える巨大な東京スカイツリーも見えるそうだ。民芸品店に入り日本の伝統的な着物を着た人形を触ったり忍者が使った刀の形をした傘も触ったりして間接的に文化体験をした。
次に、葛飾盲学校を訪問したところ、全校生徒が36名の小規模学校であった。日本も我が国と同じように盲学校の数が減っているだけでなく重度重複障害生徒の数が増えているという。生徒は36名だが教師は(寄宿舎教師を含めて)40名いて、年間予算として生徒1人あたり約1億2000万ウオン程度が支援される点には驚きもした。この程度の水準であれば、我が国の場合廃校を検討するであろう。廃校して統合教育に代替するか別の学校と統廃合するという話が出てくると思う。学校の全般的な環境は我が国と似ている。何と言っても我が国の視覚障害学校のモデルは多くを日本から持ってきたと思われる。特異な点を2〜3挙げると、食堂の入り口で本日のメニュー読み上げてくれる音声サービスがあること。そして、我が国の場合、食卓に前もって食器盆をセッティングしておきそこに着席して食べる方式であるが、日本のこの盲学校では、食堂で生徒が自ら配食を受ける方式であった。よく見ると通路を一方通行にしてあるので、お互いにぶつかる心配がない。次に、社会科教室に様々な触覚教材があることに感動した。重田先生が使用される教室でもあるこの教室には触わる地球儀をはじめ新幹線の模型、自由の女神像、エンパイアステイトビルなど多様な模型教材があった。先天的視覚障害生徒の場合、このようなものを見たことがないので、模型として触れれば事物を理解するのに大きく役立つだろう。以前ある視覚障害者から汽車がどんな形をしているのか知りたいと言われたことを思い出した。次に行ったところは、一人で散歩をすることができるようにハンドレールと誘導レーンを設置した歩行コースだった。視覚障害者の運動不足を勘案したものですばらしいと思った。ただ、屋外運動場が小さいという点が残念であった。
さぞかし負担に感じられたであろう櫻井先生による英語の授業!味気ない詰め込み式から外れ、歌とゲームで生徒を直接参加させる英語学習は本当に印象的だった。
全体的な印象としては、教育用資機材は我が国とほぼ同じであったが、日本では先生方が自ら教材を作って使用したりして教材や教具の活用がうまくできていることを見て、教育体系が実によく整備されていると思った。我が国の場合、何度かしか使わない教材や教具を捨てて新しく購入したりするが、このような部分についてはもう少し考え直す必要があると思った。学期中にも拘らず学校を見学できるようしてくださった校長先生と諸先生方にこの紙面を借りて感謝の気持ちを伝えたい。
次に訪れたところは、日本点字図書館で1940年視覚障害青年の本間一夫が「本を読みたい」という視覚障害者の切実な要望に応えるために点字と音声で本を作る場所であった。開設当時の蔵書は約700冊であったが長期間にわたり多くの困難を乗り越えて、現在は点字図書、音訳図書2万余冊の蔵書を保有しているという。全国の視覚障害者に年間約15万冊の図書を貸出している日本最大の点字図書館であった。一日に2トン相当の本を全国の視覚障害者に届けているという話を聞き、最近我が国の点字図書館では、電子図書館すなわちホームページを通じて音声図書をコンピュータあるいは携帯スマートフォンで聞くことができるようにシステムを構築したため、過去に比べ音声図書を郵送で受け取ることはほとんどないと思った。全体的な点字図書館の形態は、我が国の図書館に似ている方であったが携帯端末用ホームページの構築と言うようなシステムは我が国が進んでいるように見えた。併せ日本のコンピューター・スクリーン・リーダーの発達度合いや視覚障害者のコンピュータ活用水準についても知りたいと思った。最近韓国ではIT及びコンピュータ技術の発達で仕事から疎外されていた視覚障害者の就労が大きな関心となっている。これと関連してWEBアクセシビリティを確保するよう(情報バリアフリーの)法律もまた制定された。
見学を終えて1階にある視覚障害者補助機器販売店に立ち寄ったところ、前から欲しかったセイコーの点字時計があった。同時に展示されていたシチズンの点字時計も見たら、デザインがセイコーよりもよく見えた。オセロをはじめ糸通し器具などがあったが、生活に必要な道具が多かった。セイコー点字時計の韓国での価格と日本現地価格にあまり差がなかったので購入しなかったが、もし点字時計を買うとしたらセイコーにするかシチズンにするか悩むと思う。
こうして東京の日程を終えて次の会場である横浜へ移動し、障害者研修保養センターあゆみ荘に到着し荷物を置いてから、私達は近くにあるスーパーに行って買い物をした。日本ということで物価がとても高いと思っていたが、むしろ食料品の価格は我が国よりも安いものが多かった。そして、日本に来てちょっと苦しかったことは、韓国のレストランにはたいてい置いてあるコーヒー自動販売機が日本では見当たらず、コーヒーを飲むためにスーパー近くのロッテリアに行きもした。韓国人はこのようにコーヒーや物を買う時には、一緒に来てくれた同僚の分まで買ってやる。日本にはこのような文化がないのか助けていただいた方にお礼をしようして断られたことから、日本の文化は我々とはちがうのだろうと思った。全体的に日本の方々は人に迷惑をかけないよう徹底した態度をとるようだと感じた。このような面は、同じ東洋圏の国家であるが(日本は)ヨーロッパに似ていると思った。
あゆみ荘での最初の夜は、夕食を済ませお風呂で2日間の疲れをとることから始まった。日本といえばもともと温泉で有名なので、心の中で温泉を期待していたが、我が国の公衆浴場と全く同じであった。
その後の懇親会を通じて本格的な交流が始まった。お互いに勤務先の学校と簡単な自己紹介をしてお互いが気になっていた質問もした。最初の日なのでそうだったのか、まだ口が滑らかになっていないように感じた。このように少しずつ知り合って行く中で翌日の日程もあるということで畳の敷いてある和室に引き上げ4名の男性でかなり長い時間おしゃべりを続けた。日本についての印象と日本人の性向、音楽、文化、各種施設など様々なテーマだった。
ついに親善交流大会の日!朝食後、日本に来たら一つずつ買って帰るという「ロイヒつぼ膏」(注:ニチバン株式会社の製品)と「休足時間」(注:ライオン株式会社の製品)という商品を買うために再びスーパーへ買い物に行った。ついでにコーヒーを飲むのも忘れなかった。いつから私達がコーヒーの奴隷になったのか知らないが、朝コーヒーを飲むことが習慣化したからかもしれない。
いよいよ韓国と日本の会長の挨拶で親善交流大会が始まった。続いて両国の来賓紹介と全盲の理学博士の講演があった。我が国にも数学関連の全盲の博士がいるにはいるが、この方のような原子物理学者はいないので講演内容に耳を傾けた。理工系の特徴として目で見て研究しなければならないことが多いのにもかかわらず同教授は講義を聴く学生たちの協力を得て実験に関するハンディキャップを補完されていた。長尾博教授の職場内チームワークに対する事例は、視覚障害者が職場内で同僚同士としての関係形成をどうすればよいかについて特有の自信感のある語り口をもって話された。その後各先生方による事例発表へと続いた。ここで大切なことはそれぞれの発表に決められた制限時間があり、時間超過の場合にはベルで知らせてその時間を守らせるという点だ。初めは時間に厳しすぎるのではないかと思ったが、全体的な親善交流大会の時間を守るためには必要なことであった。続いて行われた分科討論では、私は第3組の視覚障害によるトラブル発生の背景と対処方法というテーマのグループに入った。まず日本側からこれに関連した視覚障害教師に対する解雇の事例が語られた。この事例を聞き韓国と日本の障害者を見る目がよく似ていると感じるとともに、これと関連して多くの方々の努力があったことに改めて驚きもした。後で聞いた話だが、このような視覚障害教師解雇事案が全国視覚障害教師の会に対するモチベーションであると聞いた。このような討論をしながら考えたことは、まだ6年しかならない韓国視覚障害教師会では、このような解雇事例のような事件が発生したら、自分たちとしてどのように対処するのだろうかと考えてしまった。障害関連の法的面では今や我が国が日本よりも進んでいるが、その運用については未知数のところが多い。全国視覚障害教師の会のこのようなノウハウが、今後韓国の教師会で起こりうることについてのよい手本になるだろうと思った。その後に行われた夕食会では、両国が準備した祝賀公演が繰り広げられた。我が教師会では「小さな世界」と「私達皆いっしょに」(注:日本語題名:「幸せなら手をたたこう」)という歌を日本語で一緒に歌い楽しい時間を過ごした。今考えても歌の練習中に起こったいろいろなハプニングを思い返せば自然と笑いが込み上げたりする。
次はプレゼント贈呈の時間!我が教師会からは韓国の点字カレンダーと巾着そして我が国の伝統衣装の鍵飾りを準備した。ところが、全国視覚障害教師の会の方々が準備されたものは、個人的に準備されたものもあり差し上げた物よりもあまりにも多いものをもらったようで申し訳ない気がした。最後に(私の)挨拶で次のような話をした。
『3日間の滞在中親切にしてくださった皆さんのおかげでとても楽しく過ごせました。もうすでに韓国で開かれる第3回韓日視覚障害教師親善交流大会が心配になっています。私達もこんなりっぱに準備できるかかということです。親善交流大会で残念だったことは、私達がお互いに相手の言葉を知っていたらもっと多くの会話をしていただろうということです。次に会う時には、日本語、韓国語をもう少し勉強して再会しましょう。』こうして夕食会は終了し、過ぎていく時を名残惜しく感じながら親善交流大会の感想を述べ合う時間を持った。
最終日!羽田空港に行く前にラーメン博物館に立ち寄った。ここでも外国人にも拘らず入場料を払わず入った。昔の町並みを作ってラーメンを売る店が並んでいた。私達も来たついでにラーメンを食べたところ、韓国のお金で8000ウオンもするのにキムチやたくあんが付かずラーメンだけ出てきたのを見て、若干当惑したりもした。ラーメンは我が国のラーメンと違って、生めんを使っているせいなのか、まるでうどんかそばのような気がした。長寿国の日本では、食べ物の味が薄いと聞いていたが大体が塩味で口当たりがよかったし、食べたラーメンもやや塩味がきいている方だった。ラーメンは、もともと中国で生まれ第2次世界大戦以後中国に住んでいた日本人が持ち帰って作るようになってから日本のラーメンの歴史が始まったという。個人的には、私はたいていのものは好き嫌いなく食べる方で、外国に来てその国の料理を食べることもまた一つの体験だと考え何でも食べるが、納豆だけは食べられなかった。中国の香辛料である芝蘭、韓国の清麹醤(注:大豆から作った味噌の一種で、主として韓国式味噌汁<チゲ>に使われる)のように独特なにおいがする食べ物は、おそらく他国の人は食べられないだろうと思った。
こうして3泊4日の日程を終え、いよいよ韓国に帰るために羽田空港に向かった。何名かの日本人先生方が見送りをしに空港まで来られた。名残惜しい気持ちで写真も撮り再会を期して別れの挨拶をした。免税店で両親に差し上げるパスと甥・姪にプレゼントするロイスチョコレートを買った。飛行機に乗っている間中日本での思い出を語り合い、また日本に旅行で来ようと約束した。それだけ日本での思い出が印象に残ったようだ。金浦空港に到着すると東京の天気とはちがって大雪になっていた。雪が降って家に帰るのが大変だったが、日本の先生方から心のこもった暖かいプレゼントをもらったからか心だけは暖かかった。