視覚障害教師の日本踏査記
ソウル・キョンウォン中学校英語教師、韓国視覚障害教師会総務 キム・ホニョン

 外国旅行は、異なる世界をのぞく窓であり、見慣れた世界をなじみの薄い景色に変える鏡です。最近その機会を日本で得ました。実際今回の日本訪問は、2013年12月に日本の視覚障害教師の皆さんに初めてお会いしたことが契機となりました。我が国で第1回韓日視覚障害教師親善交流大会が開かれたのです。
 当時日本からの訪問団は、全国視覚障害教師の会(JVT)の先生方とボランティアの全部で17名の方々でした。両国の教師は、セミナー、関連機関訪問、観光などを通じて3泊4日の間貴重な時間を一緒に過ごしました。しかし、お互いに十分知り合うにはあまりにも時間不足でした。我々は名残惜しさをこらえて再会を期すほかありませんでした。
 別れてからまもなく全国視覚障害教師の会から第2回交流会を日本で開催しようという提案がありました。我が国の視覚障害教師を招待してくれたのです。新しく選出されたキム・ホンヨン会長及びキム・ ウニョン副会長、そしてイ・ナヨン先生の積極的な尽力で日本訪問の準備が軌道に乗りました。後でわかったことですが、日本側でもすでに昨年夏から私達が泊まる宿泊先で1泊して施設をチェックし、東京都内のレストランをいちいち実際に入ってみるなど徹頭徹尾の準備をされていました。

日本到着‐寿司で見つけた韓日文化の差異
 ついに、2015年1月15日、韓国の11名の使節団が羽田空港に一歩を踏み出しました。私達を空港に出迎えてくださった重田代表は満面の笑みを浮かべて私達の手をしっかりと握ってくださり、山口先生は笛の演奏で私達を歓迎してくださいました。先の韓国での集いの時も南沢先生の付き添いでボランティアとして参加された奥様の理恵さん、それに韓国でも通訳として協力してくださった韓国人留学生のサ・ジェミン氏、また日本人通訳者2名も私達を迎えてくださいました。この方たちはありがたいことに私達の日本滞在中ずっと私たちの目や耳そして口になってくださいました。
 ところで、私達の出会いがあまりにも感激的だったのか、東京の空からは雨がしとしとと降っていました。空港モノレールとホテルのシャトルバスに乗って、私達一行は初日の宿泊先である東京プリンスホテルに到着しました。旅装を解いてから待ちに待った夕食のため東京の明洞(注:ソウルの中心にある繁華街)といえる銀座に向かうことになりましたが、雨のために歩くのがとても不便でした。地下鉄の乗り換え距離も普通ではありませんでした。それもそのはず日本の地下鉄は、歴史が80年以上になり路線があまりにも多く、世界で一番混む地下鉄ということで悪名が高いです。一例として、新宿駅に乗り入れている路線だけで12、プラットホームは36、出口は200以上で、一日の利用客数364万人はギネス記録だと言われています(ウィキペディア)。電車賃も民営化でかなり高い方だが、幸いに私達は障害者割引を受けることができました。日本に行ったことのある別の友人は、障害者割引は外国人には適用されないと言っていたが、その点で私達は日本人同行者のおかげで得をしたようです。(肢体障害者の日本旅行関連サイト《韓国語》:http://www.purme.org/bbs/)
 ところで、数々の不便な点にも拘らず日本の地下鉄で印象的だったことが2つあります。一つは、乗客があんなに多いのに不思議なくらいに静かだったということです。私達が地下鉄に乗った時間が夕方の6時ごろで勤め帰りの社会人でごった返していましたが、その数知れない通行人の中にやかましく電話をしたりおしゃべりをしたりする人がいませんでした。電車の中は特段他人の目が気になって隣の人とはささやかなければならないほど水を打ったように静まり返っていました。もう一つは、地下鉄入口に浮き彫りになって手で触ることができる駅案内図があるということです。(留学生の)サ・ジェミン氏も初めて日本に来た時はそれが何のためにあるのかわからなかったが、視覚障害者と縁ができてからそれが触地図ということを知ったそうです。我が国のように階段の欄干に点字で表示されているのは当たり前のことでした。利便性関連では、私達が2日目から滞在した横浜市は、地下鉄入口にベルが設置されて入口の位置を教えてくれていました。横浜市は、特別にユニバーサルデザインを導入した都市デザインが有名で障害者が暮らしやすい都市として挙げられます。
 再び本論に戻り、私達は降り続く雨と静かな地下鉄そして長い乗り換え通路を経てやっと目的地である銀座魚市場の寿司屋に入ることができました。日本人もこのような専門寿司店で寿司を食べることはそう多くはないそうです。靴を脱いで上がる部屋で席に座ったところ、テーブルの下に足を下ろすことができるように床が掘られていました。韓国でも何年か前から流行したデザインですが、日本から入ってきたデザインかもしれないと思いました。ついに寿司の出番となりました。放射線被ばくに対する心配はすでに日本に来ると決めた時から引っ込めておいたし、今大切なことは日本(本場)の寿司がどれだけおいしいかということだけでした。まもなく待望の寿司が出てきました。ところが寿司専門レストランとは聞いていましたが、本当に寿司しか出てきませんでした。付け合わせなどは全くありませんでした。一皿2万ウオンもする寿司皿にはぽつんと10個ほどの寿司だけが載っていました。
 寿司一人前を食べ、生姜を一つつまみ、水を一口飲んで、そんな風にいくらゆっくり味わって食べても到底満腹にはなりませんでした。我が国でも高級寿司店に行けば量がたくさん出てきませんが、何というか量を別にしてもあまりにもシンプルな感じがしました。ところで、3泊4日間過ごしてただ寿司だけでなく日本人の平均(通常)献立が決して派手なものではないということが分かりました。量は少ないが、デザートと間食が多彩でした。自動販売機だけ見ても分かります。コンビニに行っただけでも分かります。日本人の食べるものは、量が多いというよりはこまごまといろいろな種類がありました。事実昔から食事量だけで見れば、稲作が発達した朝鮮や中国が日本よりたくさん食べたという記録があちこちで見つかるそうです。(関連サイト《韓国語》:https://mirror.enha.kr/wiki/)
 1年前日本の教師来訪時、私達は腹が裂けるほど食べ物を注文し、「たくさん召し上がって」という言葉をかけ続けました。ところが、全く当然のエチケットのように考えていたそのもてなしの言葉が、日本では決して一般的ではないということを今回理解しました。これに関連して2日目にも面白いエピソードがありました。それは葛飾盲学校の英語の授業を参観した時です。生徒達がたどたどしい韓国語で「こんにちは。飯食べたの?」とはきはきと挨拶をしました。その声もとてもかわいかったのですが、まだ昼食時間になっていない4時限目の授業でそう尋ねるのが何だか突飛に聞こえ、私達はひとしきり笑いの渦に包まれてしまいました。後で聞いてみると、生徒達に韓国語の挨拶を教えた先生が“How are you?”の韓国語訳を「飯食べたの?」と教えたので生徒達はそのように挨拶をしたとのことでした。その平凡な質問に私達が拍掌大笑(手を叩いて大笑い)したのだから、生徒達からすれば非常に面食らったでしょう。これだけを見ても我が国で全く当然のこととして考えられている挨拶の表現が外国ではそうではないこともあり得るということ、そして日常会話にもその国固有の食事文化が反映されているのが本当に面白いです。
 寿司は量が少ないからなのか本当においしかったです。しかし、どんな時よりもすぐにデザートが欲しくなりました。私達は再度雨の中に足を踏み出しました。次の目的地の東京駅は、そこからまた何駅か離れたところにありましたが、まるで我が国の龍山駅(注:ソウル駅の南にある新幹線・特急などの始発・停車駅)のようにいろいろな商店が軒を連ねていました。しかし、1000店を超えるというこまごまとしたきれいな商店は光のようにさっと回り、私達はすぐ駅の中にある平凡なコーヒーショップに入りました。日本のコーヒーショップには、我が国にはないマンゴ・ラテやオレンジ・ラテのようなメニューもあり何とも不思議でしたが、コーヒーが安いことにもっと大きく引きつけられました。最終日にもスターバックスに立ち寄ってコーヒーを飲みましたが、為替レートを100円が1000ウオンと計算しても(最近は910ウオン台)、我が国より1杯当たり1000ウオン程度安かったです。やはり我が国のコーヒーが高いのは事実のようです。
 蜜のような(甘い)コーヒータイムがあったおかげで体がけだるくなりました。本来は帰りも地下鉄に乗らなければならなかったのですが、雨のため東京タワーに行かないことになり、そのお金でタクシーに乗ることにしました。運転手さんの親切な言葉が右から聞こえ、乗り降りするドアが左側にあるのにびっくりしました。さらに、別世界に来たようなことは、車から降りる時ドアが自動で開くということでした。日本はすべてのタクシーが自動開閉ドアになっているそうです。やはり技術は、品格を高めてくれるアイテムです。

2日目―韓国と日本はなぜこんなに似ているのか?
 2日目には、先ず浅草という地域を訪問しました。第2次世界大戦前までは東京一の繁華街であり、645年に建てられた浅草寺と朝日ビール本社の所在地として有名な場所です。参考までに、浅草寺には高麗時代の僧侶慧虚(筆)の水月観音図(別名「しずく観音図」)が所蔵されているそうです(ウイキ百科)。
 浅草寺の正門である雷門を入ると濃い香の香りが漂って来ました。日本ではこの香の煙に当たれば頭がよくなるとして重要な試験の前に学生たちが多く訪れるのだそうです。でも、何よりもここが有名なのは我が国の仁寺洞(注:ソウルの骨董品街)のようにいろいろな伝統工芸品店が列を作って並んでいるからです。私達が1時間あまり歩き回り間食をする間にも、日本各地から修学旅行に来た生徒達を多く見かけました。集合写真を撮る生徒達は制服を着こなしきちんとポーズをとっていたし、理恵さんが通り過ぎる女子高生に私達を紹介すると日本人特有の「えええ〜そうか〜」という反応を示し面白かったです。浅草観光を終えバスを待つ間、サ・ジェミン氏が摘み取ってくれた10月に咲く桜の花も不思議でした。
 この日の主要プログラム(日程)は、葛飾盲学校と日本点字図書館を訪問することでした。所感から述べれば、2つの機関(施設)とも我が国と非常によく似ている感じがし驚きました。葛飾盲学校は、教室環境、授業風景、食堂の雰囲気すべてがあまりにもよく似ていて、母校に帰ったような錯覚さえ覚えるほどでした。
 他にもまだあります。全校生徒が36名で教員は(寄宿舎教員を含めて)40名いますので、学生対教員の比率はどちらかというと教員の方が多いです。手で触る地球儀は、私が通った中学校には一つしかなく、生徒達が順番で触っていましたが、葛飾盲学校ではいくつもあって生徒が各自で一つずつ触ることができました。コンピュータ室には、生徒が操作する時に教師が横で一緒に教えられるようコンピュータにキーボードが2つ付いていました。ある小学校低学年の授業では、生徒6名と正規の教師6名がチームティーチングをしていました。私達が参観した中学3年の英語授業では、教師1名に生徒が3人だけでしたし、それも1名は欠席でした。葛飾盲学校では、障害児童・生徒1名に年間投入される予算が1億2千万ウオン(1200万円)ほどだそうです。障害児童・生徒を教育しようとすればその程度は投資しなければならないと重田先生は話されました。
 しかし、こんな違いにも拘らず全体的な雰囲気は我が国の盲学校とほとんど同じだという気がしました。特別支援学校の生徒数がだんだん減り、それも在校生が重度重複化しているということまでも似ていました。甚だしくは、見学を終えて出てくる時に副校長先生が生徒の個人情報流出を心配されて、私達が撮った写真をチェックの上削除してほしいとお願いされる姿もどこかで見慣れた光景でした。
 私達が参観した櫻井昌子先生の英語授業は何というかすばらしいと思いました。教科書に頼らず、先生と生徒が英語で遊ぶ授業のようでした。資機材の活用とか教授法に対することよりもただ基本に忠実な授業だと強く感じました。そして、日本にいる間ずっと感じたことですが、日本人が思っていたより英語ができるようなので若干驚きました。よく勉強をした先生は意外と英語を使わないことが多いですが、日本の若者たちは日常会話は基本的にでき、たとえあまりできなくても英語を使うことを恥ずかしがらないという印象を受けました。
 参考までに、櫻井先生を始め今回お会いした視覚障害教師中2名が盲導犬を使っていました。伺ってみると、日本でもほとんどラブラドール・リトリーバーという犬種を使うが、驚いたことには全国に約1000匹が活動しているということです。最近盲導犬に対する個人的関心が高まっているが、我が国で盲導犬がたった100匹しか活動していない理由を聞きたくなる瞬間でした。
 午後には日本点字図書館を訪問しました。点字図書館も我が国にとてもよく似ている体系で運営されていました。(点訳希望)書籍の申請を受け付け、それをボランティアに依頼してワードに入力し、点訳校正者の校正を経て完成することになるが、その後点字書籍あるいはファイル(電子データ)として(視覚障害者に)配布するサービス体系が我が国と完璧に一致していました。(日本)全国で作られる書籍はすべて「サピエ」というウエブサイト(注:視覚障害者を始め、目で文字を読むことが困難な方々に対して、さまざまな情報を点字、音声データで提供するネットワーク)にアップロードされ、まだ電子データ化できていない資料は同サイトの所蔵図書館情報で検索できるというものですが、これは我が国の国立障害者図書館でつい最近1月20日から行われているサービスと同じです(国家代替資料共有システム・ドリームサービス:http://dream.nl.go.kr)。
 最も著しい相違点は、やはり職員数が多いということでした。我が国で日本の点字図書館と同じような役割を担う国立障害者図書館には、職員が15名程度しかいないのに比べ、日本の点字図書館には正規の職員だけでも60余名もいるそうです。全国にある点字図書館が我が国の福祉館と似たような役割を果たしており、図書の貸出だけでなく様々な教育プログラムを運営している点も異なっていました。この他に製作される図書の形態が大部分デイジー形式という点も前から知っていましたが、やはり印象に残りました。おそらくかなり昔に普及した「プレクストーク」というデイジー図書録音再生機が重要な役割を果たしたのでしょう。また、今も毎日全国に送付あるいは返送される図書の量がトラックで何台分にもなるという点も興味深かったです。日本には依然としてアナログ方式で読書をする視覚障害者が多いようです。
 一方、日本は文字に漢字が多く含まれているので電子データ化がハングルより面倒だという説明を受けました。世宗大王(注:15世紀にハングルを考案した李氏朝鮮の王)が、視覚障害者のために大変大きな事業をされたと思いました。
 盲学校と点字図書館で受けた印象を総合すれば、先ずは全体的なシステム自体が我が国とあまりにも似ているということでした。気になって帰国後調べてみたところ、甚だしくは日本の障害者人口も全人口の5.8%で我が国と大差がない数字でした。このようなことを考えると、全体的に大きな枠は相当部分我が国が日本を模倣したことが分かります。そう考えると、初・中・高等学校が6−3−3制という点、多くの学校の開校記念日が4月に集中している点(日本は全学期が4月に始まります)なども日本の影響によるものだと言えるでしょう。
 一番大きな相違は、日本のシステムが我々よりも体系的で、機関数、投入人力、財源が我が国と比べられないほど多いということでした。これは、日本の近代的障害者福祉の始まりが我が国よりも少なくとも30年以上早かったという点、日本の人口が我が国の2.5倍以上多い1億2千万人であるという点、そして何と言っても日本は強い経済力を持つ先進国であるという点からおおかた説明することができるでしょう。ところで、このようなことを感じれば感じるほど一体我々独自のものは何なのかという問いが私の頭の中を限りなく巡りました。もちろん1900年代初めの植民地支配と朝鮮戦争以後国家再建の状況下で相当部分日本に従うほかなかったという点は認めますが、そうだとしても私の障害者としての実体の大部分を成している盲学校と福祉館のモデルが全体的に日本に依存していたという事実は、私を少なからず混乱に陥れました。私達があまりにも当然与えられたと思っていることのうちどれだけ多くのものが実際は他国から持ってきたものなのか、それが価値判断の対象ではないといっても一度くらいは振り返ってみる必要があると思いました。そうしなければこれから先も多くのことを他国に依存するしかなくなるからです。
 このような私の考えは、横浜市都筑区に位置する私達の2番目の宿泊先でももう一度確認することになりました。あゆみ荘という障害者に特化した研修センターでしたが、地下(注:実際は1階)には入浴施設がありました。最初に日程表で入浴施設に関する内容を見たとき、漠然と温泉が頭に浮かんできましたが、あゆみ荘にある浴室は温泉ではなく言葉そのままの風呂でした。我が国でどこにでもある入浴施設がそこにもありました。慣れた脱衣場で服を脱ぎシャワーを浴びて浴槽に入って体を暖め再び出て服を着る…違うところがあるとすれば、風呂に行くとき体に羽織る布をガウンと呼ばず浴衣という日本の名称で呼ぶと言う点だけでした。
 しかしそんなことはどうであれ、韓国人と日本人が一つ浴槽に入浴するとは、まさに両国が親しくなる感じがしました。それにやはり風呂で温まると2日間の疲れが全部とれるような気がしました。入浴後夕食を取り、新たに合流された日本の先生方と挨拶を交わし、畳の部屋で横になると自然と眠気が襲ってきました。隣で他の先生方(パク・チュンボン、パク・カンソプ、キム・ホンヨプ)は、楽しそうに話を交わしていましたが、私はすぐに寝入ってしまいました。 

3日目―韓国、日本に感動する!
 3日目には本格的な韓日視覚障害教師の親善交流大会が開催されました。事実日本に到着してからというもの日本の先生方の水も漏れない日程管理に舌を巻いていましたが、この日はその繊細さが最高に光輝きました。朝食時から日本側役員の先生方は、当日の日程を何度も繰り返して周知し、甚だしくは昼食メニューを選ぶ順序まで決めていました。その内容は、昼食のメニューが3種類あるが一度に食堂に入ると混雑するので、順序を決めて順番どおりに入らなければならないということでした。最初に韓国の先生方が入ってメニューを選び、その次にボランティアと通訳が、3番目に日本の先生方、そして最後に日本側役員陣がメニューを選ぶということでした。昼食のメニューとそれが配膳してあるテーブルの位置を説明してくれたのはもちろんのことでした。
 後で聞いたことですが、日本人の計画性は広く知られているそうです。視覚障害サッカー選手である私の友人の話によると、国際大会に出場した日本の選手達は分刻みで計画を立てて行動するということです。障害者自立支援センター長をしている知人の話を聞いても、日本人は一つの行事を実施する場合、数え切れないほど会議をすると言います。このように徹底した国民であるということから、一つの法律を制定するのに何年もかかるということが決して誇張には思えません。ということで、障害者差別禁止法も議論が始まったのは1990年代後半からでしたが、2013年になってやっと国会を通過し(我が国は2007年)、国連障害者権利条約が通過したのも2014年1月で140番目だそうです(我が国は2009年)。
 もちろんこのような徹底性(ゆとりのなさ)には、長所短所があるでしょう。長所は、何と言っても何かを推進する時その内容を完璧に消化するという点です。一例として、日本の特殊教育は2000年に特別支援教育と名称を変えて完全統合を目指す体系に踏み出しましたが、たとえその概念自体が西洋で始まったものだとしても日本に取り入れられた時には、すでにほとんど完璧にふるいにかけられていたのではないかと感じました。全国に特殊学校が何と1,059校(我が国は166校でその約6.3倍になる)もあることからも分かるように、特殊教育インフラが充実しており、2000年代以降には統合教育を促進するために様々な政策を推進している。例を挙げれば、一般校に特別支援教育推進委員会を設置し、支援教育が必要となる生徒を把握するため学校次元で実態調査をしたり、特別支援学級(我が国の特殊学級)の他に軽度障害児童・生徒のための通級指導教室を別途運営したり、特別支援教師の他に特別支援コーディネーターを任命して特殊教育関連業務を担当させていたりしています(ホン・ジョンスク、2012)。これまで我が国の特殊教育発展過程が、相当部分日本を見習うことであったことを考慮すれば、このような政策は近いうちに我が国においても施行されるかもしれません。
 徹底性(ゆとりなし)の短所と言えば、何と言っても変化が遅いという点でしょう。一例として学校の教室風景だけを取り上げてみると、日本の学校が我が国より現代化が遅れていると思われるかもしれません。日本ではまだ紙の教科書で授業をするのが一般的だからです。グループ別討論会や各グループによる総括発表の時にも述べられましたが、日本の学校システムの電算化は確実に我が国よりも遅れているものと考えられます。視覚障害児童・生徒及び教師のすべてが電子情報端末機器を無料で貸与されるケースは稀です。単に補助機器だけでなく、日本では業務次元でも電算化が遅れ我が国の教育行政情報システム(NEIS)のような国家単位のネットワークがないといいます。根本的に日本のIT普及率は我が国より低い方ですが、全国視覚障害教師の会の先生方だけを見ても分かるように、日本のスマートフォン普及率は2014年3月現在53.5%にしか過ぎません(我が国は88.7%、関連記事:http://www.edaily.co.kr/news).
 興味深いことは、障害教師の任用現況です。日本は1960年度に初めて義務雇用制度を開始し、1973年度に教員採用試験で点字問題が提供し始めましたが、2011年現在でも点字問題が提供されていない機関が47都道府県中12の県に及ぶといいます(毎日新聞、中村から再引用)。障害者雇用率でも2013年4月(現在)、教育委員会の法定義務雇用率が2.0%から2.2%に引き上げられたため、雇用率を達成できないところが47のうち35に急増しました(中村雅也「日本の視覚障害教師―サポート体制・障害の経験と意味づけ」、2014障害学セミナー資料集)。私が日本で話した英語教師の堀口晃代先生も任用試験で障害者区分の募集が別になっていないため一般人と競争したそうです。便宜供与面でも、コンピュータではなく点字問題と(試験)時間延長だけを受け、10倍の競争率を克服して英語教師になったが、一般学校ではなく盲学校に発令されたとのことです。そして一般学校に行きたかったのに教育委員会で制止され8年間一つの学校で勤務したといいます。
 そのような反面、障害教師に対するサポート体系は、我々よりも優れた点があります。また別の英語教師である大胡田裕先生は高校で教えていますが、障害のない教師とチームティーチングをし、その時間と授業準備のための協議時間は2人の教師それぞれの授業時間に含まれるとして認定されるそうです。また、担任を引き受ける全盲教師も多くはありませんが、高校と中学を中心に何名かいらっしゃったし、中途障害により学校から不合理な処分を受けた教師のため労働組合と各種協力団体が代わって訴訟を起こすこともあるそうです。このような点を総合してみると、日本は基本的に変化の速度が遅く徹底的に地方分権化されている代わりに、一旦実施することになった政策は徹底的に実施するという特徴がある。
 このような日本人の緻密さは、韓日セミナー(研修会)に続いて行われた懇親パーティにも表れました。パーティと言っても、我が国のように好き勝手に飲み食いするパーティではなく、司会がマイクを持ってプログラム順に出てゲームや余興する方式でした。一方では同じテーブルにいる人と話が盛り上がっているのにマイクを持って一人一人発言をすることになり話がしきりに途切れもどかしくもありました。しかし、プレゼント交換の時間になり日本の先生方がそれぞれ準備してきた生活密着型のプレゼントを受け取って、我が国の先生方は感動しないではいられませんでした。私がもらったものは、洗濯の時靴下の片方がなくならないよう一緒に挟むクリップ、一度押せば正確にスプーン1杯のたれがかけられるたれ入れ、そしてお茶でした。
 プレゼントといえば、最終日の朝に全国視覚障害教師の会から受取った公式プレゼントも同じように感動的でした。プレゼントは、カレンダー、英語略字表など各種の点字資料と視覚障害者に特化したものでした。プレゼントの封筒の中にはその使用説明書がたどたどしいハングルに翻訳されており、プレゼントの表には浮き上がる絵具で「我々韓国の同僚へ」と立派なハングルに触れるように書き込まれていました。
 日本人の真面目さにも惜しみない称賛を差し上げたいと思います。セミナー(全体会)では主要参加者全員が正装で一寸の乱れもなくきちんと座り、グループ討論時には韓国人教師の質問に誠実に答え、懇親パーティ後の2時間を超えて続いた感想発表会で各人が話すたびに真剣に耳を傾けて聞く姿勢、学校生活から韓日両国の歴史までその深みのある内容…もちろん日本の先生方の平均年齢が我々より高かったという理由もありますが、日本の皆様の態度は体に染みついている何か気品というものが感じられました。
 セミナー(研修会)と懇親パーティがすべて終わってから、私達男性部屋では韓国人教師だけの簡単なビールパーティとなりました。やっぱり韓国人は夜通し遊ばなければ満足できないようです。真夜中の2時ごろ皆が部屋にもどって寝床に入っている時、我々4人はお互いに感じたことを話しながら途中で寝入ってしまいました。それなりに日本を分析してみたり、名残惜しさを語ってみたり、次回大会について考えてみたりしました。しかし、明らかなことは、今回の3泊4日が参加者全員に誰も考えていなかったある種の深い感動を与えたということです。

最終日―再会を期して
 帰国の日の朝、全国視覚障害教師の会の重田代表が最終日に4日間の支出明細を説明しつつ予算が余ったので2千円(約2万ウオン)ずつ返すと言いました。私達はどうしてもその金を受け取ることができませんでした。通訳をボランティアに頼み、貸し切りバス借料と各種経費を節約して残した金であるということをよく知っていたからです。セミナー(研修会)で通訳をしてくれた方々は大部分が全国視覚障害教師の会の常連ボランティアとか韓国が好きで韓国語を独学したという人たちでした。4日間ずっとボランティアとして同行、通訳をしてくれた人のうち1人は韓国と北朝鮮で勤務したことがある元外交官で、もう1人はただ韓国が好きで昔から韓国旅行をしてきているという方でした。4日間ずっと私達のガイドを引き受けてくれた理恵さん、通訳と視覚障害者全員の手足となって助けてくださった最も感謝すべき韓国人留学生のサ・ジェミン氏、そして韓国から一緒に来たオ・テミン先生まで皆さんがすべて交通費だけもらって喜んで私達に協力してくださいました。
 このように多くの人々に愛され、ホテルロビーからバスに乗る時日本の先生方が出て来て手を振っていつまでも別れを惜しんでくれました。まるで南北朝鮮の離散家族が再会を果たして帰って行く時のような気持になりました。4日間だけでここまで親しくなれるということが信じられませんでした。確実に韓日両国は過去2000年の歴史の中で1900年間兄弟として仲良く暮らした国であったことが間違いないと思いました。それほどうれしかったのです。
 飛行機の出発時間は午後だったので午前中にカフェでコーヒーを飲み、昼食はラーメン博物館に行って日本のラーメンを食べました。ラーメン博物館は名前こそ博物館ですが、多くのラーメン店が入っているラーメン百貨店でした。日本の1970〜80年代風インテリアで飾り、地下2階から地上まで全国各地の特色を生かしたラーメン店を入店させて入場料をとって運営しているところでした。幸いにも今回も韓国福祉カードを見せて入場料を免除してもらいました。
 ラーメンはおいしかったです。塩味の聞いた辛さが妙に中毒性がありました。不思議に韓国に帰国してからものどが渇かなかったのをみると実際にはナトリウム(塩)がそれほど多く入っていないようです。
 全日空の飛行機に座った私達は、みんながみんなそれぞれ日本に思いを馳せました。私は中毒性のあるラーメンの後味のように韓国障害教師会の日本旅行も濃い余韻を残したと思いました。
 韓国は日本のように経験豊かな障害教師がいません。そして、日本のように長期間にわたって育ててきた障害教師の団体もありません。その代り我が国では多くのことが大変速い速度で変化しています。障害教師が法的に認められて10年にもなりませんが、すでに多くの障害教師が誕生しており十分ではりませんが制度も整いつつあります。
 このような私達に日本が良い手本を示してくれたと思います。今後我が韓国視覚障害教師会もより立派な団体に向かって歩み始めることを期待します。


「第2回日韓親善交流大会」のページに戻る

「目次」にもどる

トップページへもどる

2015年8月更新